Contents
 
 
五百年の古文書が語る「知」と「徳」の系譜
 
~天領という選択と、二千人の参列に刻まれた一族の絆~

 
1.はじめに ~「口伝」による滑川一族の記憶~
 
 近年、私たちの生活は大きな転換期を迎えています。長引いたコロナ禍や、少子化の影響、さらには仕事や生活の拠点を都心部へ移す親族が増えたことで、かつては当たり前のように行われていた「親族一同が顔を合わせる機会」が、以前に比べてずいぶんと少なくなりました。
 
 これまでは、法事や盆暮れの賑やかな集まり、あるいは親族間での何気ない語らいを通じて、先祖の歩みや一族の「口伝(くでん)」が自然と語り継がれてきました。
 
今でも鮮明に覚えている光景があります。ある年の大晦日の夜、ちょうど本家屋敷を建て直している最中であったため、親族一同は、仮住まいとして本家の蔵の中で新年を迎えようとしていました。。
 
 その蔵には、「大坂夏の陣(一六一五年)」以来、次に使う機会に備えて大切に仕舞われてきたという鎧兜が納められていました。(※会津地方では「この前の戦い」といえば戊辰戦争を指しますが、滑川家にとっては、それは大坂夏の陣のことなのです)。。
 
 光潤伯父の話によれば、その鎧兜も長い歳月を経て、すでに巣虫に食われ、今では骨組みだけが残されているとのことでした。暗がりの中で歴史の重みを感じながら、親族一同が静かに集まります。そして午前零時、新しい年を迎えた瞬間に、全員で「明けましておめでとうございます」と深々と挨拶を交わす――。それは、四百年前の戦場から繋がる一族の歩みを、肌で感じる瞬間でもありました。。
 
 しかし、そのように多くの親族が集まり、一族の誇りや物語を共有する場が減った今、こうした大切な記憶が少しずつ消えつつあることに、一抹の寂しさを覚えています。
 
 そこで、私が個人的に大変お世話になった伯父(滑川本家当主)から生前に聞かされていた話や、今も元気に過ごしている父との語らいから得た貴重な史実を、一つの形にまとめることにいたしました。これは、滑川家の血を引く私たちが、自分たちの歩んできた道を共有するための「親族内の記録」として、また次世代へ繋ぐバトンとして記すものです。
 
 冒頭の写真は、二〇一六年に執り行われた伯父・滑川光潤の納骨式の様子です。北茨城市には、今も日本最大級の同姓集落である「滑川家集落」が存在しており、写真に写る大勢の人々は、すべて滑川家の親族です。この光景そのものが、大坂の陣から続くこの地に根を張り、数百年をかけて築き上げてきた一族の強固な結束を、何よりも雄弁に物語っています。
 
 これに先立ち行われた葬儀には、実に2,000名を超える方々が参列されました。当日は、会場となった「白浜会館」脇を走る国道6号線が、参列の車列によって深刻な渋滞を引き起こすほどでした。人口減少や社会情勢の変化が進むこれからの時代、ここまでの規模で人々が集い、故人を偲ぶ光景は、もしかすると最後の大切な記憶になるのかもしれません。
 
 この記録が、北茨城で歴史を刻んできた一族の絆を再確認する一助となり、そして遠く秋田の地で同じ誇りを守り続けているご親族の皆様にとっても、共通のルーツを感じていただける「温かな場所」となれば幸いです。
 

2.関ヶ原の戦いと「天領」への移住
 
 滑川家の歴史を振り返るとき、語り落とせない二つの大きな物語があります。一つは遠い祖先の武功を伝える『山入の乱』の終焉。そして記憶に新しい『この度の出来事』としての、一六〇〇年前後の『新天地への転封と開拓』です。まずは、この直近の一六〇〇年の出来事から話しましょう。
 
 関ヶ原の戦いの直後、それまで五百年にわたり常陸国を治めた佐竹氏が秋田へ転封されるという、大きな時代の転換期が訪れました。そうなると、次にこの地へ来る新領主たちが、前領主である佐竹氏の善政の痕跡を塗り替えようとして、社会が混迷を極めることは明らかでした。実際、その後の常陸国では、一村が皆殺しにされた凄惨な『生瀬(なませ)騒動』や、石高の8割から9割をも強引に徴収するする超重税など、人々の予想を遥かに超える過酷な統治が現実のものとなりました。
 
 この激動の最中、滑川家は大きな決断を下します。それは、佐竹氏より与えられていた領地(常陸太田から大子にかけて)や、先祖伝来の「滑川郷(現:日立市滑川本町)」を離れ、三兄弟で新天地を目指すという苦渋の選択でした。
 
 向かった先は、常陸国と磐城国の境界に位置し、車氏の退去によって空白地帯となっていた車城エリア(現:北茨城市華川町付近)でした。十五世紀末から十六世紀末の約一世紀にわたり佐竹氏を助けてきた滑川家は、北関東の情勢を克明に把握しており、再起を懸ける最適の地としてこの場所を選定したのです。また、かつて治承・寿永の乱(一一八〇年)において、佐竹氏が源頼朝の手を逃れ、北茨城市・花園山(花園川の源流)を越えて奥州藤原氏を頼ったという常陸国での『逃去の歴史』が、先祖の脳裏に、聖域としてのこの地の記憶を呼び起こしたのかもしれません。
 
 前述の通り、佐竹氏去りし後の常陸国が、新たな領主による過酷な統治に喘ぐことを鋭く予見し、滑川家はあえて特定の藩に属さず、徳川幕府の直轄地である『天領』という立場を選び取りました。これは、一族の安泰と地域の平和を何よりも優先した、極めて冷静かつ先見の明に満ちた生存戦略であったと言えます。各地で旧臣による一揆や不穏な動きが続く中、滑川家は武器を鍬に持ち替え、自ら水路を拓くことで民の生活を安定させる道を選んだのです。
 
 ちなみに、水戸藩のように転封がなく特定の大名家が代々統治し続けた藩では、長い年月ゆえの構造的な澱(よど)みが生じやすく、土佐藩や宇和島藩、あるいは佐竹氏の久保田藩(秋田)などの例に見られるような、深刻な内部抗争や強固な階級対立が起きる傾向にありました。
 
 逆に、浜松藩、佐倉藩、川越藩、古河藩といった『出世城』と称される地では、事情が大きく異なります。これらの藩主となった譜代大名たちにとって、その地は幕閣の中枢へと飛躍するための一時的な『腰掛け』に過ぎませんでした。彼らの視線は領地ではなく常に江戸の幕府へと向いており、無理な増税で一揆を引き起こして自身のキャリアに傷をつけるよりも、平穏無事な統治実績を積むことを優先したのです。
 
 また領民の側も『どうせすぐに代わる殿様』と割り切ることで、多少の圧政や不満があっても致命的な対立を避けるという、ある種のドライな相互関係が成立しており、これが結果として『善政』とも言える安定を生んでいたと考えられます。
 
 余談になりますが、現在、私はかつての川越藩(埼玉県)に住んでいます。日課である早朝ランニングの途中で、村々に点在する古い墓地を通り過ぎますが、驚くべき光景を目にします。
 
 そこには、明暦や延宝などといった江戸時代の年号が刻まれた、古さを感じさせながらも、石工の手による縁取り線のある立派な墓石が当たり前のように並んでいるのです。一方、北茨城にある滑川家の墓所に目を向けると、江戸時代の墓碑の多くは、河原から運んできたような自然石に文字を刻んだだけの質素なものです。
 
 この対照的な光景こそが、当時の地域の豊かさの差を物語っています。滑川家は「天領」という比較的自由な立場を選び、懸命に開拓に励みましたが、それでも水戸藩という巨大な権力の影にあり、厳しい年貢の負担に耐え忍ぶ日々であったことがうかがえます。旧川越藩内の立派な墓石を見るたびに、私は、故郷の質素な墓石を思い浮かべ、過酷な時代を静かに、しかし力強く生き抜いた先祖たちの苦労に思いを馳せずにはいられません。
 

3.「名君」の虚飾を見抜く知性と、天領という自衛の選択
 
 私が、毎朝のランニング中に目にする「旧川越藩内の立派な墓石」と帰省した際、ご先祖様と対面する際の「滑川家の質素な墓石」。その決定的な差を生んだ背景には、隣接する水戸藩の存在がありました。
 
 滑川家がなぜ「天領」という盾を選び、自衛の道を選択したのか。その理由は、隣接する水戸藩の当時の実態を見れば明らかです。
 
 世間では水戸光圀(水戸黄門)を「名君」と崇めますが、徳川の世を冷徹に見つめてきた滑川家にとって、その治世は欺瞞(ぎまん)に満ちたものでした。徳川家優位の歴史書き換えともいえる『大日本史』編纂への天文学的な浪費や、『権大納言』(唐名:黄門)という官位を得るための朝廷への莫大な献金。その原資は、前述したように領民からの苛烈な搾取によるものでした。
 
 テレビドラマで描かれる「黄門様」の理想像など、当時の過酷な現実を知る者からすれば「愚の骨頂」と言わざるを得ません。民を慈しむポーズの裏で極限まで搾り取るその治世は、ある意味で、目に見える「悪代官」よりもはるかに巧妙で、たちが悪いものだったのです。
 
 こうした光圀の『権威への執着』と『民への無理解』、そしてそれに対峙した地域の気概を象徴する、痛快な口伝が残っています。私自身、大叔母のもとを訪ねるたびに何度も聞かされた、大叔母の実家系に伝わる『婆さま』の物語です。この地域では広く知られた、誇り高い伝承です。
 
【口伝:米俵に座る光圀と、婆さまの一喝】
 
 ある時、光圀が農民の血と汗の結晶である「米俵(こめだわら)」の上に、事もあろうに平然と腰を下ろしていました。それを見咎めたのは、茨城でその名を知られる名家「菊池家」の婆さまであったと伝えられています。
 
 彼女は相手が徳川の御連枝(ごれんし)であろうと恐れず、「食べ物を何だと思っているのか!」と烈火のごとく激怒し、光圀の尻を叩いて叱り飛ばしたのです。この一件により、光圀は自らの非を認め、結果として那珂川の水利権を認めさせるに至った――。
 
 権威の虚飾を剥ぎ取り、実利(水)を勝ち取ったこの菊池家の伝承こそ、当時の茨城北部の人々が抱いていた「名君という名の怪物」への抵抗心の表れと言えるでしょう。
 
 虚名と権威を飾り立てる裏側で、不作時ですら容赦ない重税を課した苛政。滑川家が「天領」という立場を選び、自らの技術で自衛しなければならなかったのは、こうした支配体制から一族の命脈と地域の生活を守り抜くための、必然の選択であったのです。
 

4.平和の礎となった「水」の技術と維持・管理システム
 
 第2章で記した通り、滑川家は「武器を鍬(くわ)に持ち替える」道を選びました。しかしそれは単なる隠遁ではなく、武士として培った組織力と、裏付けられた「確かな技術」を地域へ還元する新たな挑戦でもありました。
 
 新天地での繁栄を支えたのは、かつての武勇を平和的な「知恵」へと転換させた一族の力でした。その背景には、滑川家に代々伝わる一つの興味深い口伝があります。
 
 文禄・慶長の役の際、佐竹氏は秀吉より少数精鋭部隊(佐竹の石高から計算すると、本来必要な兵は二万五千人のところ、三千人の兵)の派兵を託されました。その際、滑川家が肥前名護屋へ出陣する途中で滞在した九州・柳川(現:福岡県)において、一族は掘割(水路)構築の高度な先進技術を目の当たりにし、その技術を習得します。これが一族の間で「柳川の長逗留」として語り継がれてきた、技術習得の転換点でした。
 
 一六〇〇年代初頭、この異郷で得た知見を、ここ北茨城の地で結実させ、生活・農業用水路として完成させました。これは、後の「十国堀(世界かんがい施設遺産)」の開削より半世紀も早い、当時としては極めて先駆的な大事業でした。戦場へ向かう足跡の中でさえ、地域の未来を拓く術を学ぼうとした先祖の向学心には、驚かされるばかりです。
 
 特筆すべきは、その水路設計の妙です。水量豊かな花園川に堰(せき)を設け、取り入れた水を一度支流へと導きます。その先で、増水した分を本流へ戻す『逃がしの流れ』と、集落へ引き込む『活用の流れ』に分岐させることで、自然の猛威を制御し、常に穏やかで安定した水流を保つ工夫を施したのです。
 
 この制御された小川は、さらに二つの流れに分かれることで、土地を自然な形で三つに区画しました。そこに滑川家の三兄弟がそれぞれ居を構えます。この物理的に『争いの種を生まない』極めて合理的な資源・空間設計により、入植以来四百年余り、土地や水を巡る諍(いさか)いは一度も起きていません。
 
 こうした平穏な環境を自ら整え、四百年の長きにわたり分かち合いながら守り続けてきた歴史は、一族の誇りとしてだけでなく、日々の慎み深い『生き方』として大切に受け継がれてきました。
 
 本家当主であった伯父・滑川光潤の、常に先を見越して工夫を凝らしつつも、周囲への細やかな気遣いを決して欠かさない、あの穏やかで理知的な人柄。その姿に接するたび、私は、この四百年絶えることのなかった清らかな水流と、そこで営まれてきた穏やかな生活の記憶が、伯父という一人の人間の中に尊い遺伝子のように静かに受け継がれていることを感じずにはいられませんでした。
 
 そして、現在もなお、どの区画に住んでいるかで「長男系」「次男系」「三男系」の系譜が明確に判別できるほど、(一部は、完全な水路として地下に埋設されていますが)、その境界は現在でも美しく保たれています。先見の明を持って築かれたこの水利インフラこそが、快適な故郷を創り出し、数百年先の平和と繁栄を支え続ける不動の礎となったのです。
 
 この章の結びに、この水路が四百年もの長きにわたり維持されてきた「秘訣」とも言える、ある夏の日の記憶を記します。
 
 滑川家では、お盆の最後の日、送り火とともに「川干し」という重要な行事を行ってきました(かつてはこの地域には、精霊流しとして「盆舟」という精巧な木造船を川へ流す豊かな文化がありましたが、現在は環境保全の観点からその姿を消してしまいました)。
 
 「川干し」とは、文字通り一時的に川を干し上げる作業です。花園川からの取水口部分で、野石をきれいに積み上げて塞ぎ、集落への流れを止めます。すると、普段は豊かな水に隠されていた川底が露わになり、逃げ場を失ったニジマスやヤマメ、アユたちが次々と跳ね回ります。それを一族総出で、一部分は洞窟のような暗がりまでありますが、取水口から本家の横にある小川まで、この水路を這い回り、手づかみで捕獲するのです。
 
 「お盆の終わりに殺生とは」と思われるかもしれません。しかし、この儀式には深い意図が隠されています。川干しのあと、真夏の庭先で豪快に焚き火を囲み、串刺しの収穫した魚を炙る。熱々の魚を頬張りながら交わされるのは、「あそこの石垣が崩れかけていた」「あちらの屈曲部に泥が溜まっていた」といった、魚を追う中で目にした水路の生々しい状況の情報共有です。つまり、楽しみながら自然と「インフラ点検」を行っていたのです。
 
 本来、水路や石垣の維持管理(普請・ふしん)は、重労働であり敬遠されがちな仕事です。しかし、滑川家ではそれを「魚捕り」という極上のレクリエーションと一体化させることで、大人から子供までが喜び勇んで水路に入り、その構造を熟知する仕組みを整えました。さらに、取水口を塞ぐ作業を通じて、水の通る隙間もないほど繊細に石を積み上げていく高度な「石積技術」を次世代へ伝承する、実践的な学習システムをも構築していたのです。
 
 こうした卓越した技術は、屋敷の構えそのものにも息づいています。本家は周囲より1メートル以上もかさ上げされた堅牢な石積みの上に築かれており、簡素なものではありますが、洪水という自然の猛威を想定した「城郭」のごとき防災構造を今に伝えています。楽しみの中に義務を溶け込ませ、平時からの備えを「生き方」そのものに変える――。この知恵こそが、四百年間、命の水脈と一族の繁栄を守り抜く不動の礎となったのです。
 
 
 
 この「知」と「徳」、そして「困っている者がいれば、何にも代えて助ける」という一族の精神を象徴する、伯父から聞いた忘れられない話があります。
 
 ある時、伯父の家の「滑川」という表札を見て、一人の見知らぬ方が門を叩かれました。聞けば、秋田で勤めていた会社が倒産し、職を求めて首都圏へ辿り着いたものの、行き場をなくして途方に暮れていたといいます。「秋田でも滑川さんには驚くほど親身に助けていただいた。もしかしたら同じお名前なら、ここでも……」。その方は、藁をも縋る思いで訪ねてこられたのです。
 
 伯父は初対面のその方を快く迎え入れ、丁寧にもてなして再起の手助けをいたしました。
 
 四百年の時を経て離れて暮らしていても、秋田と茨城の滑川家には、損得を超えて人を助けるという共通の精神が脈々と流れている。この逸話は、私たちの名に刻まれた「信頼」という遺産が、今も誰かの希望になり得ることを教えてくれました。
 

5.「山入一揆」と苦渋の決断
 
 さて、時計の針をさらにもう百年ほど戻しましょう。滑川家の運命を左右したもう一つの事件、それが室町時代に関東を揺るがした『山入(やまいり)一揆(佐竹氏お家騒動/一四〇七年~一五〇六年頃)』です。
 
 発端は、佐竹氏十三代当主・義盛に跡継ぎがなく、上杉家から婿養子を迎えたことへの反発でした。「源氏という武家の名門に藤原氏という生ぬるい貴族の血を混ぜるな」と、佐竹一族の有力者・山入与義らが蜂起し、百年に及ぶ泥沼の内乱となりました。
 
 滑川家にとって、本家筋である小野崎氏の出自を考えれば、山入氏への加担は本意ではなかったと思われます。しかし、乱の後期には江戸氏や小野崎氏を含む常陸国の武士団のほとんどが山入氏側についていました。
 
 山入氏が幕府から「常陸守護」に任じられ、太田城を占拠して実質的な支配者となった以上、家の存続のためには「現実的な強者」に従わざるを得なかったのです。これは当時の武士として、一族を守るための常識的かつ不可避な判断でした。
 

 その当時の、山入氏への支援の事実を示す古文書が、以下のものになります。
 
※古文書画像は、上部の下地がアイボリーとなっている筆書きの文字です。下に同じ書式を使ってわかりやすく古書体の活字で示しています。また、古文書は、ほんの一部ですので、機会がありましたら、追加公開します。  
 
     
 
 
山入家当主(佐竹義藤)からの恩状

 「去る(十二月)十四日、(城の)大門での戦闘において、立派な働きをして負傷されたとのこと、感心いたしました(感動しました)。 傷の具合は良いでしょうか。(大変)気掛かりに思っています。 よくよく養生するのがよいでしょう。謹んで申し上げます。
 
 12月28日 (佐竹)義藤 滑河式部殿」
 
 つまり、激しい内戦の中、裏切らずに自分のために命がけで戦ってくれることは、主君にとって何より重要ですということ意味です。わざわざ直筆丁寧な書状で「傷はどうだ? 心配しているぞ」と伝えることで、「私はお前を大切に思っている」というメッセージを送り、忠誠心をより強固につなぎとめる重要な政治的意味が込められています。

 
 
 一四九二年の『孫根城(まごねじょう)の戦い』で、佐竹義舜は再起不能とも思われる大敗を喫しました。追い詰められた義舜が最後に逃げ込んだのが、佐竹氏にとって守護神ともいえる最後の砦、金砂山城(西金砂神社)でした。
 
 この地は古くから佐竹氏の聖域であり、平安末期の一一八〇年に源頼朝に攻められた『金砂合戦』を除けば、この山に籠もることで窮地を脱し、形勢を逆転させてきた不落の拠点でした。義舜にとって金砂山への籠城は、文字通り一族の存亡をかけた、背水の陣だったのです。
 
 このように金砂山城へ逃げ込んだ義舜が絶体絶命の危機に瀕する中、滑川一族の間では、周辺勢力が台頭する時代を見据えた今後の身の振り方や、政局に関する議論が尽くされることとなりました。
 
 その結論として、血縁上の近さを主張する山入氏よりも、上杉家ゆかりの養子系譜を継ぐ『義舜こそが正統な当主である』と判断したのです。
 この認識は、戦国期から江戸時代にかけて定着していく『家門の継承』を重視する考え方に先駆けるものでした。現代に例えるなら、単なる創業家の一族であること以上に、社名やブランドという『会社そのもの』を代表する社長の正統性を認めるような合理的な選択だったと言えます。
 
 その理論の詳細は、次のようなものでした。
 
 『佐竹氏のような地域を統括する守護大名(後の戦国大名を含む)は、天皇や一部の公家、あるいは滑川家のような地域豪族(国衆・在地領主・寄子)とは異なり、中央権力(幕府や鎌倉府)との結びつきと、家臣団の統率を求められる公的な存在である。
 そのため、大名は先祖からの血のつながり(縦糸)を尊びつつも、時の権力者や有力大名との連携(政治的後ろ盾)を確保するために、場合によっては他家の血を養子として受け入れる(横糸)必要がある。
 このようにして、血の縦糸と政治の横糸…。この二つを緻密に紡ぎ合わせ、綻びのない強固な「面(綿布)」にまで織り上げてはじめて、一つの領国支配という体制が成立する。それが大名というものの生存戦略なのだ。』
 
 この「縦糸と横糸」の理論に基づき、滑川家は混迷する常陸国を再び織り直すべきは佐竹義舜氏であると確信します。そして山入義藤氏と決別し、義舜氏を新たな政治的連携の主軸に据えるという、一族の命運を懸けた選択を行ったのです。
 
 このようにして、滑川一族がその去就を明らかにしたことで、常陸国の歴史の流れが大きく変わり始めます。
 
 その行動が、次の歴史学者による文献から明らかです。
 
 
   
滑川家による佐竹本家への支援

 この記録は、明応六年(一四九七年)の「右京大夫義舜公当山御籠城之事」に関する調査研究の論文(引用:志田 諄一,「金砂大祭礼と金砂山縁起」, 茨城キリスト教大学紀要, 人文科学35, 14-1, 2001)である。
 
 わかりやすくこの文章を説明すると、明応六年(一四九七年)、(前の古文書・手紙の差出人・義藤の息子である)山入氏義(うじよし)が大軍を率いて、佐竹宗家の義舜(よしあき)が立てこもる金砂山(常陸太田市)へ攻め上ってきました。
 
 守備側(佐竹宗家)は、山の上から麓に至るまで、掻楯(かいだて・木の盾)や逆茂木(さかもぎ・トゲのある枝を並べた柵)、大小の関所を設けて厳重に防御しました。
 
 この時、金砂山の僧侶たち(金砂の衆徒)は、「解脱同相の衣(僧侶の服)」を脱ぎ捨て、「不壊金剛の鎧(頑丈な鎧)」を身につけて、佐竹義舜のお供をして戦いました。しかし、防衛軍は敗れ、敵(山入勢)は雲や霞が湧くように山頂へ攻め上ってきた、と記録されています。
 
 この一四九七年の戦いは、佐竹宗家にとって「ここで負ければ滅亡」という最終防衛戦でした。
 
 そして、籠城戦において最大の脅威は食料が切れた時、つまり『飢絶(きぜつ)』にあります。東清寺の備蓄が底をついた際、滑川父子は自ら調達した米を担ぎ、敵軍が雲霞のごとく取り囲む険峻な金砂山を駆け登りました
 
 この行動は単なる「物資運搬」ではなく、現代のアクション映画さえも凌駕するほどの、文字通り命懸けの挺身(ていしん)でした。彼らが維持したこの細い補給線こそが、佐竹宗家の命運を繋ぎ止めたのです。

 
 

 文献解説にもある通り、この兵糧支援がいかに困難を極めたかは、歴史書『吾妻鏡』の金砂城に関する記述からも読み取ることができます。一一八〇年の合戦記録には「城郭は高山の頂き、路は急峻」「天地の如く」とあり、この地が古来より攻めるに難く守るに堅い、極めて険しい要害であったことが分かります。
 
 実際に、この「西金砂神社)」(金砂城跡)を訪れるとわかりますが、大変な断崖絶壁であり、それに加え、周囲には山入方の敵兵が充満している状況です。その中で米俵を担ぎ、敵の包囲網を縫うようにして城へ登る滑川父子の姿は、並大抵の体力・精神力で成し得るものではありませんでした。
 
 このように他の兵には真似のできない、滑川父子の持つ強靭な意志と卓越した身体能力によって、かろうじてこの補給線は維持されました。これにより、義舜の窮地を救う一筋の光となったのです。
 

 
 しかし、一五〇二年頃の「金砂山城の戦い」において、戦局はついに凄惨な局面を迎えます。滑川父子の献身的な支えをもってしても抗いきれぬほど、当時の山入勢の攻勢は凄まじく、佐竹義舜の軍は壊滅的な打撃を被ることとなりました。
 
 この絶望的な状況に、義舜はついに自害を覚悟するまで追い詰められます。しかし、その決意を知った滑川郷の国人領主・滑川大膳は、すぐさま山入軍の包囲網を突破すべく少数精鋭の兵のみを率いて山上へ駆け上がり、必死の思いで主君を翻意させたのです。
 
 この劇的な一幕は、佐竹氏の公式記録である『佐竹譜』をはじめ、数々の古文書に「感動的な場面」として語り継がれてきました。現在は原本の確認が困難ですが、当時の様子を克明に伝えているとされる『天神林由緒帖』の記述を以下に紹介します。
 
 
   
 
義舜自殺引き留めの段
 
 ※原資料(古文書)が入手できないため、文字のみ。
   
   
 
【現代語訳】
 
義舜(よしきよ)の軍勢は非常に少なくなっており、敵を防ぐ手立てもありませんでした。そのため、義舜はひたすら自害することばかりを考えていました。
 
そこへ、滑川が、わずか百六十~百七十人の歩兵を率いて山を登って駆けつけ、夜になってから義舜にお目にかかりました。
 
義舜は(滑川に向かって)こう言いました。「一度は志を遂げ、お前たちの長年の忠勤に報いたいと思っていたが、私の天運はもはや尽き、進退窮まってしまった。急ぎ自害して、この無念をあの世で(先祖に)報告するつもりだ」
 
これを聞いて、滑川をはじめ、側に仕えていた家臣たちは皆、涙を流しました。
 
滑川は強く諫めて言いました。 「殿、むやみに死を選んではいけません。早く他の土地へ逃れて、時機を待ってください。(宿敵の)氏義を滅ぼし、佐竹の家系をしっかりと守り通すことこそが、我ら家臣たちの長年の苦労に報いる道なのです」
 
義舜は、ようやくその説得に従うことにしました。


※古文書内の重要なキーワード解説
 
「維谷(いこく/しこく)まる」:進退きわまる、どうにもならない状況になるという意味です。義舜の絶望感が伝わります。
 
「泉下(せんか)」:黄泉の国、あの世のことです。
 
「氏義(うじよし)」:佐竹氏を追い詰めていた宿敵、山入氏義のことです。
 
「宗廟(そうびょう)を全うし」:先祖を祀る場所を守る、つまり家系を絶やさず存続させるという意味です。
 
 
 
 
 絶望の淵にあった佐竹義舜は、滑川大膳の決死の諫言によって死を思いとどまりました。これこそが、滅亡寸前だった佐竹氏の運命を変える最大の分岐点となったのです。
 
 義舜は、滑川家のような忠義心の厚い有力な国人領主たちが今なお自分を支えていることに、再起の希望を見出して金砂城の脱出を決意しました。そして、宇留野氏、八木氏、安藤氏、小野岡氏らの支援も得て山入勢力から逃れることができました。
 
 やがて『義舜様は生きている』という知らせが伝わると、山入氏の強引な支配に不満を抱いていた家臣たちが、次々と義舜の下へ再び集まり始めます。義舜は滑川氏らの軍勢を主軸に据え、ついに反撃へと転じました。
 
 この不屈の再起によって、義舜は後に佐竹氏『中興の祖』と称えられる家名再興を果たし、近世大名へと続く輝かしい歴史を切り拓くことができたのです。
 
 そして、義舜は、絶望の淵にあった自分を救い、共に戦ってくれた滑川一族の各名に対して、以下のように、村々の支配権を「恩賞」として正式に認めました。
 
 この古文書では、滑川氏が自軍を率いて、山入側に奪われていた「村たき(村田)」や「染之村」を自力で、あるいは義舜と共に奪い返したことへの報酬が与えられると同時に、まだ戦は終わっておらず、以下の文から、滑川軍への大きな期待が込められていることもわかります。
 
「於此以後忠節仕候者、尚以可有恩賞者也」
(この後も忠節を尽くすのであれば、さらに恩賞を与えるであろう)
 
 
     
 
   
 
 

 
     
 
   
 
 

 以下、その後の展開です。
 
一五〇四年:勢いに乗った義舜は、ついに宿敵・山入氏義を捕らえて処刑。百年続いた内乱(山入の乱)に終止符を打ち、太田城を奪還しました。
 
一五〇六年:百年間続いた内乱により荒れ果てていた領国内の整理(評定)に目途がつき、ほんの一息ではあるが、穏やかな時期となる。この落ち着いた年に、佐竹家は最大の功労者である滑川家に対し、本拠地「舞鶴城(太田城)」を象徴する鶴の家紋(舞鶴紋:このページ最下部参照)を授けた。これは「佐竹の城を守り、飛び回って戦った勇者」としての功績をたたえるものでした。
 

 その後、数々の合戦で顕著な武功を挙げた滑川氏は、佐竹家から『最前線の死守を任せうる、最も信頼すべき一族』としての地位を確立しました。その信頼は日増しに高まり、一族の役割もより重要なものへ。そして一五八〇年には、佐竹家の防波堤として、ついに伊達政宗との対決にまで発展する激動の時代を迎えたのです。
 
 常陸を離れ、陸奥への遠征軍に加わった一族を待っていたのは、あまりにも過酷な運命でした。凄絶な戦いの中で命を落とした二階堂氏の家臣となっていた滑川藤十郎(滑川修理の子)などの滑川家の子孫たち。現地に今も滑川館(柏城)や滑川(河川)、滑川神社などとして名前を刻まれたほど果敢に戦った彼らは、一五八九年、ついにこの地で武士としての最期を迎えました。
 
 その悲劇からわずか三年後。生き残った滑川家の祖先である三兄弟は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に従軍するため、遥か九州の肥前名護屋城へと出陣します。もし、陸奥の地で散った藤十郎の父子が存命であったなら、この時、一族揃っての遠征となったはずでした。柳川での長逗留(滑川家口伝)を思うにつけ、歴史の皮肉を感じずにはいられません。
 
 しかし、戦場に散った者たちの想いを背負い、九州の地に降り立った三兄弟と佐竹軍の姿は、あまりにも堂々たるものでした。肥前名護屋城に到着した彼らを見た豊臣秀吉は、その一分の隙もない身なりと、磨き抜かれた武具の手入れの美しさに深く感動したと伝えられています。
 
 古記録には、当時の様子がこう記されています。
 
「常陸侍従義宣、その軍勢を引き連れて名護屋の陣に到着す。その着装、甲冑の光彩、さらに旗指物・槍の柄にいたるまで、ことごとく精妙にして、隊列の整いたること、諸軍の中に冠たり。太閤(秀吉)これを見て、深く感嘆し、『東国において、軍法・装束の整いたること、佐竹に及ぶ者なし』と賞し給う」
 
大意:常陸侍従である佐竹義宣が軍勢を率いて名護屋に到着した。その装備、鎧の輝き、旗や槍の柄に至るまで全てが素晴らしく、隊列の美しさは全軍の中で一番であった。秀吉はこれを見て深く感嘆し、「東国で軍の決まりや装束がこれほど整っているのは、佐竹に及ぶ者はいない」と褒め称えた。
 
 もちろん、伊達政宗公が率いる軍勢の華やかさも後々語り継がれていますが、当時の評判は対照的でした。『伊達は華美(派手)だが、佐竹は精緻(整っている)』。その一糸乱れぬ隊列からは、単なる武力だけではない、高度な規律と理知的な精神性が感じられ、古武士の鑑(かがみ)として高く評価されたとのことです。
 
 こうした一族の精神は、二〇一六年に世を去った伯父・滑川光潤にも確かに息づいていました。故郷の北茨城をこよなく愛する両親と共に、幼い頃から頻繁にこの地へ帰省いたしましたが、そのたびに接する伯父の生き方や教えに、私は深く感銘を受けて育ちました。
 


追伸 ~四〇〇年の時を超えた、秋田での邂逅と鎮魂~
 
 数年前、本場のきりたんぽ鍋を求めて秋田を旅しました。私にとって二度目となる秋田訪問でしたが、初回の秋田旅行(このときは、青森の友人宅からの寄り道でしたが)と同様に、そこには運命としか言いようのない出会いが待っていました。
 
 最初の訪問時(二〇〇〇年初頭)、千秋公園内にある「佐竹史料館」を訪れた際のことです。ガラスケースに歴代奉行資料(冊子)が展示されており、記述を見せるため、たまたま開いていたページにふと目を落とすと、そこには数名の奉行の名が並んでおり、その筆頭に「滑川長蔵」という文字がはっきりと記されていました。予期せぬ場所での先祖の名との対面。それはまるで、ご先祖様が「我々はここにいるぞ」と私を呼び寄せたかのような、不思議で温かい感覚でした。
 
 そして二度目の訪問では、より深く歴史の影に触れることとなります。佐竹氏の国替えには、関ヶ原の戦いを巡る父・義重(よししげ)と子・義宣(よしのぶ)の対立という苦い背景がありました。その歴史の渦に巻き込まれた父方の家臣たちが眠る場所があると聞き、私は義重公の菩提寺である「でん信寺(でんしんじ)」(「でん」は、門の中に眞)を訪ねました。
 
 境内の北西、見晴らしの良い丘へと足を運んだ私は、そこで、今までに見たことのない光景に愕然としました。大木の茂みや土の中に、江戸時代からのものと思われるとても古い墓石が、無数に土の中に埋もれていたのです。一部は助けを求めるように斜めに墓石が突き出ていました。
 
 義重公が不慮の落馬で世を去った後、その菩提を弔うために多額の寄進によって建立された名刹であるはずのこの場所でさえ、長い歳月と歴史の混乱は、石塔を土へと還そうとしていました。苔むし、半分だけ地上に顔を出した墓石群の姿に、口伝に残る佐竹父子確執の心配事の話や、国替えの混乱の中で散っていった名もなき家臣たちの無念が重なり、胸が締め付けられる思いがしました。
 
 しかし、この旅の終わりには、その寂しさを救うような運命的な出会いが待っていました。帰路、車で立ち寄った角館(かくのだて)でのことです。美しい武家屋敷の街並みの中に、ふと「滑川」の表札を見つけ、私は導かれるようにその門をくぐりました。
 
 そこで出会ったのは、その屋敷を代々守り続けてこられた「滑川おばさま」でした。初対面でありながら、歴史の糸をたぐれば、これは紛れもなく「四百年ぶりの親族対面」です。
 
 挨拶もそこそこに、私たちの口から自然とこぼれ出た言葉は、やはり四百年前のあの「国替え」のことでした。「あの時は、本当に大変だったでしょう」。私たちはまるで昨日の出来事のように、泰平となる前の最後の戦いとなった「大阪夏の陣」での大阪城での思い出も含め、互いの先祖の苦労を気遣い合いました。
 
 佐竹公への忠義を貫き、未知の土地・秋田へ渡り、厳しい環境を切り拓いた家系のご苦労。聞けば、秋田の滑川一族は、角館に武家屋敷を構えるほどの家格を持ち、ある者は藩主の身辺を守る『御徒歩(おかち)』や『御馬廻(おうままわり)』といった精鋭部隊・ボディーガードとして、またある者は町奉行として、藩政の中枢で重きをなしたといいます。
 
 その一方で、私たちのように常陸に留まる道を選んだ者たちにも、また別の苦難がありました。かつて佐竹氏の強力な支援者であった事実は、新たな支配者による圧政の標的となり得ます。だからこそ、私たちは幕府直轄領である『天領』という庇護を求め、一族が固く結束して生き抜く道を選んだのです。置かれた場所は違えど、互いに懸命に紡いできた二つの歴史……。
 
 ともに異なる苦難の道を歩みながらも、それぞれの地で「滑川」の名と誇りを守り抜いてきた――。四世紀という長い歳月によって隔てられた時間と距離が、その瞬間に一気に縮まり、深い共感と絆で結ばれたような、生涯忘れ得ぬドラマチックなひとときでした。
 
 
     
 
   

滑川家家紋「舞鶴紋」

 とても優雅な「舞鶴紋」です。
 
 この名誉ある家紋を、
わたくしたち滑川家の子孫は、
今でも、とても大事にしています。
 

 
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