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概要

 新型コロナの影響で親戚同士さえも行き来がはばかられる状況となり、 また、それまでにも、大叔父や本家の伯父が亡くなったことで、以前は、 田舎に帰った際、飲みながら夜中まで聞くことのできた戦国時代前後を中心とした様々な話や その他、いろいろな伝承を聞くことのできる機会が失われつつあることに危機感を抱いた。
 そのため、このWebページに滑川家の伝承(主に口伝)をもとに、各種歴史史料館(秋田市佐竹史料館、 茨城県立歴史館など)における調査資料を加え、 滑川家一族で情報共有ができるための記録場所を作成することとした。

 茨城県北部、あるいは秋田県で「滑川」を姓とする人たちは、 そのほとんどが、大子町や常陸太田市天下野(てがの)地区を中心とした地侍の出身であり、 小野崎氏(藤原北家魚名流)から分かれた武士団である。
 滑川一族は、1407年~1506年の100年におよぶ佐竹氏のお家騒動「山入の乱」の決着に大きく貢献したことで佐竹氏の信頼を得てからは、 戦国時代は、その献身的・穏やかな政治的駆け引き・戦闘能力などが評価され、あちこちで戦った記録が残っている。

 Webデータではあるが、 「日本姓氏語源辞典」 によると、 「滑川」を名字とする人数の小地域順位では、私の出身場所が1位とされている。
 これは、多くの武士団は関ヶ原のあとで大変な状況(転封や改易など)におかれたが、 北茨城に移転することとなった「滑川三兄弟」も一族の存亡をかけ、 ともに戦ってきた佐竹氏が転封となり、本来は秋田へ向かわなければならないところ、 「あそこでは食えない。生き残れない。」(故滑川光潤伯父の口伝)ことから、 1570年代に車丹波守斯忠が岩城氏へ再配属したため領主が不在となっていた「車城」付近 (福島県いわき市に接する茨城県境地域、江戸時代は水戸徳川藩ではなく天領となる)に入り、 三兄弟が仲良く2つの水路で領地を3分割して農作を始めたことで(現在もこの水路は残っている)、 江戸初期から現在まで、400年余りにわたる安住の地を得たことから、この地で繁栄できたことによる (いまでも、400年前の区割りで、長男系、次男系、三男系で住む地域が分かれており、 「あそこの人は長男系」とすぐにわかる)。    
 
   


















 
秋田「佐竹史料館」で見つけた祖先

 秋田市立佐竹史料館を訪問すると久保田藩の「御町奉行御交代控」があり(左の写真)、偶然にも見開いて展示しているページに、関ヶ原合戦直後の佐竹藩秋田転封のため、分かれて茨城から去ってしまった祖先の片割れが生きていた痕跡を見つけることができました。
 
 ちなみに、私の系統の先祖:滑川三兄弟は、あの緊迫した中でも情報収集を行い、磐城藩(福島)と隣接した場所に空白地帯(現在、車城趾とされている南側)があると分析し、そこの領地を兄弟三人で分けることで、茨城に残ることができたということです。 今でも、地元では「長男系」「次男系」「末子系」の子孫の系統が、2つの用水路で3つにきれいに分かれて住んでいます。この直前まで、滑川三兄弟は朝鮮出兵の際に柳川へ駐留したという言い伝えがあります。 その際、水路の街「柳川」の古い堀割(今のきれいな堀割は、江戸初期に田中吉政が築いたものです)を見てきたからでしょう。 この2つの水路で分かれていることで、四〇〇年あまり、三兄弟の子孫は水利権での争いをすることなく過ごしてきました(もともと古くから穏やかな性格の家系ですので、争うことはありえませんが)。
 
 とにかく、佐竹義宣をはじめとするこちらの方たちは、関ヶ原合戦における徳川家への嫌疑により、いきなり遠く離れた雪深い秋田へ行かざるを得なくなり、藩全体の石高も半分以下に減らされてしまい、相当に苦労されたことが秋田市内の他の歴史史料館にも書かれていました。
 

 よく考えると、戦国時代(1460年頃~1590年頃)の百年あまりに加え、関ヶ原合戦後の徳川政権安定時期までは、いわゆる武士を中心とした民族大移動の時代でした。 滑川家も、最終的には、佐竹家と一緒に秋田へ出て行った家系、古来からの日立市や天下野(現・常陸太田市)に残った家系、そして私の家系のように、1590年代の秀吉による鮮出兵先(福岡の柳川に長らく駐留したという先祖からの言い伝えがある)から関ヶ原合戦を経て、 戻る故郷は水戸徳川家に取られてしまい、かといって遠い秋田へは行かずに新たな場所を見つけた家系など、様々でした。先祖からの言い伝えをもとに、歴史史料館の図書館古文書や最近整いつつあるデジタルアーカイブなどを調べれば調べるほど、武士の家系が生き残るために、 本当に大変な時代だったことがよくわかります。
 

 もともと私の先祖は、小野崎氏(藤原北家魚名流)出自の武士で、バンジージャンプで有名な竜神大吊橋へ入る分岐の南1kmあたりにある天下野(けがの)付近に「天下野館」として、1300年頃には住んでいた(滑川右衛門)ことが「新編常陸国誌」に記載されています。 また、太平洋岸の日立市滑川地区(滑川本町)にも1300年代に居住した記録が「康応記録」に記載されています。そして最も重要な拠点が、常陸太田城の北にある大門城(おおかどじょう)であり、滑川の歴史には、何度も出てきます。
 
 1300年頃は、上記の3拠点で親族どうし、行ったり来たりして安穏と暮らしていたのですが、1407年の佐竹家継承問題に端を発する佐竹家100年戦争「山入の乱」では、喧嘩している両方の佐竹さんにあちこち振り回されました。
 

 当初、滑川一族の頭領である滑川式部少輔が、山入家(佐竹義藤)に付いたことから、山入家が有利になりました。
 
 この山入家当主の佐竹義藤さんには、とても可愛がられました。常陸太田城の北にある大門城(おおかどじょう)の合戦で怪我をした際に、左の古文書のように 「去十四日於大門二振舞被手負候、感悦候、手能候哉、床敷候、能々養生可然候、謹言」(『茨城県史料』中世編Ⅳ、秋田藩家蔵文書八-二四、二四七頁)とあり、 つまり「滑川式部少輔さん、先日14日の大門城での合戦で、負傷してしまい大変でしたね。しっかり寝て休んで養生してください」というだけの他愛のない史料も残っています。1490年のことです。
 

 しかし、この当主が亡くなると、次の代の山入家当主(佐竹氏義)の常陸国における政治ポリシーが明確でないことから、将来性に疑問を感じ始めます。 また、天下野の領地で、隣接する石井さんが勝手に侵略してきて困っていたのですが(人が良すぎると変な人につけこまれますね。注意しましょう!)、その土地所有権問題を解決してもらえないことから、滑川一族は、山入家に不審を抱き始めます。
 

 そのような中、山入家が敵対していた佐竹義舜(よしきよ)の熱烈なラブコールと、その常陸国統一への意気込みに惚れ込み、北方の伊達家の勢力が次第に大きくなる中ですので、 常陸国の将来を考えて、義舜に真剣に味方するようになりました。
 
 その様子は「西金砂山神社記録」という史料に、「・・・其後糧絶而、諸軍及労倦故、滑川父子自運米、扶持於諸勢・・・」 (・・・兵糧が途絶え諸軍が労倦したため、滑川父子が自ら米を運び込み諸勢を扶持し・・・)という記述があります。 この記録は西金砂神社のものですが、義舜さんが逃げ込んだ先は、滑川一族の地元である天下野地区を東に登ったところにある東金砂山です。今は東金砂神社があります。間違わないように注意してください!
 
 どちらの神社も、行ってみるとわかりますが、とても立派で歴史を感じさせ、まさに神懸かった雰囲気があります。 この東金砂山にて、3年にわたり、佐竹義舜さんの兵士のため、滑川一族がせっせと兵糧米を運び込みました。 ちょうど西暦1500年のことです。同じことが「義舜家譜」にも書かれています。
 
 このように滑川一族が地元、天下野の百姓たちにお願いしながら、せっせと佐竹義舜の軍勢への兵糧を運んでいたのですが、それなのに、この佐竹義舜さん、戦いに負け続け、情けないことに「自殺したい」と言い出すようになりました。 なんとも、わがままな話です。その自殺を止めに行く様子が「天神林由緒帖」という史料に記録されています。 これは、まるで歌舞伎の名場面ですね。
 
 義舜其の兵甚だ微にして是を拒に術なし。偏に自殺を欲す。
 
 此に滑川僅に歩兵百六七十人を率ひて登山、夜に入て義舜に謁す。
 
 義舜謂て曰く、一たび素懐を遂げ、多年の勤功に報んと欲すと雖ど も、天運巳に維谷まる。急に自殺し、怨を泉下に報ずべしと。
 
 滑川を初、侍臣等皆泣く。
 
 滑川諫て曰く、君漫に 死を許すことなかれ。早く他郷に去て時を待て。
 
 氏義を滅し、宜く其宗廟を全し、臣等多年の労に報べしと。
 
 義舜漸にして其諫に従ふ。
 
 なんとも「御涙頂戴」的なやりとりです(笑)。ただ、よくある自家製の作り話ではなく、天神林家という佐竹義舜の敵味方でもない家に伝わっていた史料への記載が見つかったという歴史学的にも信憑性のある記録です。 ロマンのある話ですね。
 
 とにかく、この後、佐竹義舜は、滑川一族が古くから使っている手慣れた大門城(おおかどじょう)へ一緒に移り、←左図の古文書に残っている滑川の人たちの加護により、一気に山入氏との百年戦争を終わらせます。 滑川家は、常陸国における竹中半兵衛、諸葛孔明、いや張良のような軍師であり、さらに、大変なスタミナと根性がもあったことから自分でもあちこち動きまわって戦った記録(やはり、古文書が多数、残っています)もあり、佐竹家には頼りにされたようです。
 
 とにかく、このことから、山入の乱の終わりが見えてくると、すぐに、佐竹義舜さんは、滑川家のみなさんに対して、数々の感状、恩賞(所領)を与えます(ただし、この古文書が出された地域は、この時、まだ制圧していないので、空手形?)。
 

 そして、完全に戦が終わって落ち着いた1506年に、この大きな戦いを記念した新しい家紋(舞鶴城=常陸太田城を飛び回る落ち着きのある勇者を示すという「舞鶴紋」)まで贈られました。 この史実があるため、「藤原北家魚名流小野崎流」の流れを組む滑川家の人たちは、この家紋を大事にしています。これは、私の伯父(いわゆる北茨城「滑川三兄弟」の末子系統本家)が、滑川家の言い伝えとして、常々言っていたことです。
 
 これらのほとんどの記録は「秋田藩家蔵文書」あるいは「茨城県史料」を中心に、多数保存されています。
 

 やっと大きな戦乱も終わり、義舜の次の代の佐竹義篤(佐竹宗家系統)さんとは、さらに親しくなり、義篤さんやその後見人の義信さんたちからはとても頼りにされたようです。 さらに、佐竹義信さんからは「信」の一字をもらう(古文書:『茨城県史料中世編Ⅳ』秋田藩家蔵文書八―三九)ほど親密になった人も出てきたようです。 佐竹さんの家とは、それほどの密接な関係になり、いろいろと頼まれ、常陸国やその周辺など、前述のように、優れた知能と体力を駆使して、あちこちへ戦いに行ったり来たりで、慌ただしい毎日を過ごしたとさ。

 
 
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