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 北茨城市の「車城」付近に「滑川家集落」があります。
 
 関ヶ原合戦直後、佐竹氏側近やゆかりの武将・地域豪族などは領地を追われました。 そのため、多くは、佐竹氏転封先の秋田へ移動しました。
 
 滑川の家系は、佐竹家重臣である小野崎の系譜ではありましたが、 あくまでも地方豪族(「滑川」の由来がこの地域に依存する) という独立した立場でしたので、 厳しい環境の秋田へ行く必然性がありませんでした。
 
 そのため「滑川三兄弟」の一団は、常陸国周辺で生き残る場所を探しました。
 
 この時期、城主が去った車城がありました。 この城は、街道とは丘で隔てられた盆地にそびえる山城であり、 万が一の場合でも攻守しやすいことに着目し、城自体は廃城となっていたため、その付近を所領しました。
 
 そして、以前に 佐竹義舜を支援した際(下の2番目の史料)に食料自給の重要さを経験していたことから、 次の乱世に備えるため、刀を鍬に代え、 しばらくは農民として農作物生育の研究に従事することにしました (結局、すぐに乱世は再訪せず、「徳川300年の世」となってしまいました。 床下に隠した刀は、昭和になってから本家家屋建替えの際に出土しました)。
 
 そのように、現在まで、400年あまりに渡って住み続けたことから、 上の写真のように多くの親族がいます (納骨式の写真ですので血縁者のみの行列です)。
 
 面白いエピソードとして、関ヶ原合戦より数年前のイベントである朝鮮出兵では、 佐竹氏に関係する勇猛な地方豪族であることから九州出張要請に応じましたが、 朝鮮へすぐに出兵するための名護屋城の先にある 佐竹義宣布陣先には寄りつかず、離れた柳川の地でしばらく逗留し、 水路の研究をしていたということです(「滑川家口伝」より)。
 
 そのため、1600年頃に北茨城の地へ入った際、その研究を活かし、 兄弟三人が水資源で争うことがないように二つの長い水路を作り、 3人の住み分けをしました (中郷「世界かんがい施設遺産 十石掘り」の先駆けとなりました)。
 
 そのおかげで、滑川一族は、この地で穏やかな400年を過ごせました。
 
 現在でも、住む地域で、長男系、次男系、三男系の家系のいずれかに分かれています (別に、派閥とかではなく、皆さん人が好いので、早朝の散歩で人を見かけると、 「彼は長男系の人だね」程度の会話ですが:笑)
 
 以下、現存する滑川家に関する史料の一部です。
 
     
 
 
山入家当主(佐竹義藤)からの心遣い

 現存する最も古い文書が、1490年の「佐竹藩家蔵文書八・二四」です。
 
 滑川式部少輔が、佐竹本家と対立していた山入家当主の佐竹義藤を助けていたという記録として残っています。
 
 「先日14日の大門城での合戦で、負傷してしまい大変でしたね。しっかり寝て休んで養生してくださいね。」という、一見すると、他愛のない文書です。

 この時期、山入家が、滑川軍団に支えられており、滑川氏が重要な存在であったことを示していると同時に、このような書類を書かせてしまう滑川式部少輔の愛されるべき人の好さも伝わってきます。
 
 
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滑川一族の佐竹義舜への支援

 この記録は古文書ではないのですが、次の古文書に関係するために引用しました。これは、歴史学者による調査論文(志田諄一,「金砂大祭礼と金砂山縁起」,茨城キリスト教大学紀要,人文科学35,14-1, 2001)で、明応六年(1497年)の「右京大夫義舜公当山御籠城之事」に関した記載がなされています。
 
 一般的に戦国時代は「応仁の乱」(1467年~)より始まったとされますが、関東では、それよりも早くから戦国時代に入っており、足利氏と上杉氏の対立から広がりました。その影響は、佐竹氏にも及びました。  
 一族内の多くが、佐竹と同じ源氏の系統である足利ではない上杉からの入婿(関東管領山内上杉憲定の次男・竜保丸:佐竹義人)に反発しました(応永14年:1407年)。これに反発し山入氏が台頭して、佐竹本家を圧倒しつつありました。
 
 滑川一族は、当初、山入氏を支援していました。
 
 しかし、自分たちの利益よりも常陸国全体の融和・統一を重視したいという佐竹義舜へ、次第に与するようになったとされています。
 
 
 
 
   
 
佐竹義舜の自殺願望
 
 ※原資料が入手できないため、左の文字のみ。
 
 このように全力で滑川一族が佐竹氏を支援しているにもかかわらず、佐竹家頭領(佐竹義舜)が「死にたい」と自殺願望が高まってしまいます。
 
 その様子が、「天神林由緒帖」という史料に記録されています。
 
 自殺しようとしている佐竹義舜のいる金砂城へ、滑川一族郎党が160~170名ほどの軍勢で山を駆け上がり、何とか説得している状況が書かれています。
 
 ちなみに、この金砂城は、佐竹氏が源頼朝や足利氏にも攻められた際など、何度も佐竹家を立て直すための拠点として、由緒ある場所です。
 
 
 
   
 
滑川一族の活躍
 

 自殺を思いとどまり、それまで劣勢だった佐竹義舜は、滑川一族の支援により逆転します。
 
 そして、1503年、滑川一族の3名それぞれに対し、知行宛行の恩賞を発行しました。
 
 これは、単に「土地を与えます」という生易しいものではなく、まだ奪還できていない土地の獲得を、勇猛な滑川軍団へ託したものです。
 
 ※右の文書に加え、下の2つの文書も同時に出されています。  
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滑川家の舞鶴紋

 約100年ほど続いた戦が終わり、一段落した1506年、 滑川一族に対し、家紋が贈られました。
 
 とても優雅な「舞鶴紋」です。
 
 舞鶴城(=常陸太田城)を飛び回る勇者として、 優しい顔で大きく羽ばたく鶴が描かれています。
 
 この名誉ある家紋を、 常陸太田城周辺で長らく活動・活躍してきた滑川一族の子孫は、 今でも、とても大切にしています。

 
 
 
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